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    Categories: 徒然

ハリネズミのいない暮らし

1日のうちで、朝8時半から9時半までの一時間が一番辛い。夫と娘が出勤&通学するのを見送り、私が仕事を開始するまでのこの一時間はマロンのお世話の時間だった。「マロンタイム」と呼ぶ、私の癒しの時間だった。

ケージからトイレを出して部屋の角っこに置く。脱走防止用にハリハウスとクマのドアストッパーを置いて部屋んぽエリアを区切ってからマロンをケージの外に出す。

お腹に怪我やしこりがないかをチェックするため、仰向けにマロンを置いてお腹をもふもふ触る。「なにするのよー」という感じに手足をバタバタするが針は立てないマロン。

3分くらい(私が満足するまで)もふもふして手を放すと「よっこいしょ!」という感じに起き上がり、ポテポテとトイレに歩いていく。そしてウンチとおしっこをする。ハリネズミには珍しく、マロンはトイレのしつけがほぼ完璧だった。トイレの後はよくあくびをしていた。

トイレが終わったのを見届けると、私はフードに入れたお皿でマロンをトイレの外に誘い出す。この時は大好きなヘッジホッグダイエットのみ与えた。匂いにつられてマロンはトイレから出てきて、私の持つお皿からカリカリと気持ちの良い咀嚼音を立てて朝ごはんを食べる。

ご飯を食べ終わるとお遊びタイムが始まる。その間に私はトイレ砂を取り替え、ケージ内のシーツを取替え、ケージ内を毎日水拭きした。1歳の頃は、私がケージを掃除している間にドアストッパーを乗り越えて部屋中を探検していた。

2歳の頃はスリッパや寝袋に頭を突っ込んでひたすらホリホリ遊びをしていた。

私がマロンの部屋んぽに付き合うことができない時は、膝の上にマロンをのせて遊ばせていた。2歳半を過ぎた頃から、マロンはご飯が終わると自分から私を目指してやってくるようになった。

ひとしきり遊ぶと、マロンはハリハウスによじ登り、中で眠った。

ツルツルとしたシーツが好きでそれ以外のものを敷いている時はわざとおしっこをして「汚れてるので取り替えてもらえます?」という感じでこちらを見てシーツの取り替えを要求した。私が家にいる時はマロンは1日の大半をこのハリハウスでお昼寝をして過ごした。

これがハリネズミと暮らしていた頃の、私が1日で一番癒された「マロンタイム」だ。今はそれがごっそりと無くなってしまった。

マロンのトイレを置いていた壁の隅の隙間にハリ砂が詰まっている。壁紙も少し黄ばんでいる。

ここは、マロンがよく鼻先を乗っけていたところだ。

マロンがこの家に暮らしていた痕跡だ。そこを見るたびにどうしようもない悲しみがこみ上げてきていい歳した大人なのにしゃくり上げて泣いてしまう。胸が潰れる思いと言う言葉があるが、本当にその通りだなと思う。この言葉を最初に考えた人もきっとこんな思いをしたのだろう。

正直、ここまでマロンとのお別れが悲しいとは思っていなかった。娘や夫、そして母にも心配をかけているので早く立ち直らなくてはいけないと頭ではわかっているのだが、なかなか厳しい。500グラムの小さな針玉は、私の想像以上に大きな存在となっていて私の生活に入り込んでいた。

でも、マロンを飼わなければ良かったとは思わない。今感じている悲しみや辛さとは比べものにならないくらい、幸せで楽しい時間をマロンは与えてくれた。今は喪失の悲しみに押しつぶされているが、時間が経てばきっと笑顔でマロンを思い出すことができるという確信がある。マロンと共に暮らした3年と2ヶ月は私にとってかけがえのない時間だった。

そのかけがえのない時間は、このブログやiPhone、Googleフォトに膨大なデータとして残されている。自分でも「こんなに撮ってどうするのよ」と思うくらい写真や動画を撮ってきたが、それら全てが宝物だ。ペットを飼っている人は、惜しむことなく毎日写真を撮るのが良いと思う。「明日撮ればいいや」の「明日」は来ないかもしれないのだから。

先日写真を全て見返し、マロンと私のツーショット写真が一枚しかないことに気がつき愕然とした。撮るのに夢中で自分を撮ってもらうことを全く考えていなかったのだ。もっと撮って貰えばよかった。マロンと笑顔の自分の写真を見れば「マロンと一緒の私はこんなに幸せそうな顔をしていたんだな」と客観的に見ることができたのに。

唯一のツーショット写真は、マロンが亡くなる前日の写真で、マロンをお腹にのっけたままうたた寝してしまった私を夫が隠し撮りしたものだ。みっともなくて額に入れて飾ったりすることはできないが、マロンと私のリアルな日々を切り取った一枚だと思うので大切にしたい。夫にはとても感謝している。…でもできれば疲れた寝顔ではなくてきちんとしたキメ顔の写真も残したかった。

マロンの遺骨は私のカフェテーブルに置いてあり、その隣にマロンの針が入った小瓶がある。抜け針を見つけるたびに拾って瓶に入れていたものだ。綺麗で捨てるのがもったいなくてなんとなく集めていたら、3年ちょっとでこんなにたまった。

この針を見るたびにマロンって綺麗な色だったよなと思い出すことができるし、この針に触れるたびに、マロンの針山を撫でていた時の感触を思い出すことができる。遺体を火葬してしまうと当然のことながらケラチン質でできた針は全く残らない。たまたまだが、こうした形で残すことができて本当に良かったと思う。自分に感謝したい。

遺骨と針の前にお水とヘッジホッグダイエットを供え、コーヒーを飲みながらマロンのことを想う。これが今の「マロンタイム」だ。犬や猫と違い、ハリネズミとのふれあいはこちらの方から静かに寄り添う形なので、あまり生前と変わっていないと言えば変わっていないのかもしれない。ただ、愛らしい動きや重さや体温がないだけ。それがものすごく寂しいのだけれど。

ありがとうマロン。私はあなたと過ごせて本当に幸せだったよ。

おやすみ、マロンパン。

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